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周りのことを気にしすぎない

  • 哲学
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今更ながら「嫌われる勇気」を読んだ。
タイトルから何となく買うのが気恥ずかしくて避けてしまっていたところはある。

が、読んでみたらとんでもない良書だった。要点と自分の考えをまとめておこう。

原因論と目的論

原因論は、あらゆる結果の前には「原因」があるという考え方。

目的論は、「目的」を求めることで今の結果になっているという考え方。

例として、自室に引きこもっている友人の話がある。
両親との関係、あるいは学校や職場でのいじめ等がトラウマとなり、外に出られなくなった。
→ これが原因論

一方で、アドラー心理学の目的論ではトラウマを明確に否定する
原因があって今の引きこもり状態になっているのではなく、「外に出ないこと」が目的につながっていると考える。
例えば、「外に出ないこと」で両親を困らせ、自分に注目を惹きたい。腫れ物を触るかのように丁寧に扱われたい。あるいは復讐をしたいというような。

実は過去に縛られているのではなく、自分自身の目的を果たそうとしているだけと気付くことで、人は変わることができる。

Memo

例えば「気温が下がったから雪が降った」などの現象は確実な因果が存在するため、おそらく対象外である。

一方で「人間の状態」に関する因果に関してはすべて「自分自身の決定によるもの」という意味合いだと解釈した。
これは自分自身も頻繁に思っていることでもある。
(言ってしまうと角が立つこともあるのでなかなか言葉にすることはしないが)

すべての悩みは「対人関係の悩み」である

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みというものは存在しない。
どんな種類の悩みであれ、そこには必ず他者の影が介在する。

劣等感は客観的な事実ではなく、主観的な解釈である。
理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱くことを指すが、劣等感も使いようによっては努力や成長の促進剤となる。

「どうせ自分なんて」という考えは「劣等コンプレックス」であり、劣等感ではない。
自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを指す。

例1)わたしは学歴が低いから成功できない
例2)わたしは器量が悪いから結婚できない

これは原因論にもつながる考え方である。

承認欲求を否定する

アドラー心理学では承認欲求を否定する
他者から承認される必要などない。むしろ、承認を求めてはいけない。

承認されることを通じて自分の価値を実感することができるが、他者からの評価ばかり気にしてしまうので、最終的には他者の人生を生きることになってしまう。

Memo

これは現代社会そのものを否定しているかのような痛烈さを覚えた。
自分自身も承認欲求はあるし、誰かに褒められることを期待してしまっているのでハッとさせられた。

このブログも誰かに認められるために書いているのか?
そういう見方もあるが、「自分のメモのために書いている」という側面もある。

書いた記事をSNSでシェアするのはどうだろう?
これも承認欲求を満たす行動でありつつも、あくまで自分の考えを発信する / 良書を紹介するといった行動でもある。

要は何事も他人の目を気にすることなく、自分自身をより高みに近づけるために行動をしろということだろう。

課題を分離する

誰の課題なのかを考える。
他者の課題を自分の課題だと勘違いしてしまっているケースも多い。

例えば「子どもが勉強をしない」という課題は親の課題ではなく子どもの課題である。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?を考える。

かといってアドラー心理学は放任主義を推奨するものではない。
子どもが何をしているのかを知った上で見守る。
勉強をしないことが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思った時にはいつでも援助をする用意があることを伝える。
しかし、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。

Memo

これについては、親である自分の視点からすると、そうは言ってもなぁと思うところはある。そう簡単にいくものでもない。
本書では、親たちは世間体や見栄だったり支配欲のために子どもに勉強させようとすると書かれている。これ自体は親の課題である。
それをあたかも「あなたのためを思って」というニュアンスで勉強を促そうとすると、子どもは違和感に気付き反発するという。

世間体や見栄という部分は承認欲求が絡むところなので、そもそもそれは解決するべき課題ではないのかもしれない。

自由とは、他者から嫌われることである

すべての悩みは対人関係の悩みであるが、われわれは宇宙にただひとりで生きることなどできない。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。

自ら嫌われたいと思う人などいない。
「他者に嫌われろ」という意味ではなく、「嫌われることを恐れるな」が本質。

嫌われる勇気を持つことで対人関係は一気に軽いものに変わる。

Memo

自分の過去の経験からしても非常に納得感がある。
関わる人が増えれば増えるほど、全員から好かれることは不可能になっていく。
誰か一人でも「あ、この人に嫌われているかも・・・」と思うとそのコミュニティに居づらくなり、別のコミュニティに移るということを繰り返してきた気がする。

一般的に10人いたら、2人は好意的、7人は中立的、1人は嫌いという割合になるという。
ある意味、仕方のないものと捉えて、嫌われても特に気にしない心を持つということが大事なのだと学んだ。

幸福とは、貢献感である

人間にとっての最大の不幸は、自分を好きになれないことである。
これに対し、「自分は誰かの役に立っている」という思いだけが自分に価値があることを実感させてくれる。

しかし、役に立っているかどうかを判断するのは他者であるため、自分自身が介入できる問題ではない。
ここで他者に対して「承認」を求めてはならない。
「誰かの役に立っている」という主観的な感覚 = 「貢献感」を持てればそれで良い。

Memo

誰かの役に立っているという貢献感を得ることが幸福につながる一方で、承認を求めてはいけないというのは矛盾しているようにも見える。

実際のところ、「本当に役に立っているのかどうか」は気にするなということだろうか。

相手の役に立つであろうことをただ行い続ける。
これが実は空回りしていて、役に立つどころか不要なことを行なっているかもしれない。
そんなことでは相手に嫌われてしまう。

・・・そこで嫌われることを恐れるなという話か。
別章にて「すごいね」「良くできたね」「偉いね」という声かけは相手を下に見ている発言であるため、「ありがとう」と声をかけるべきという話があった。

相手が人として対等に思っていてくれていれば「ありがとう」という対等な言葉が返ってくるはずだ。
その言葉を聞くことでより貢献感を強めることができそうだ。

ただし、ありがとうを得るためではなく、あくまで自分の他者貢献のために行う。(難)

まとめ

全体的に衝撃を受けたが、完全に腹落ちさせるのは難しいと言わざるを得ない。
本書の中でも、完全に理解するためには今までの人生の半分の時間がかかると書いてあった。

「周りのことを気にするな。自分の信念に従って動け。」という内容が核だろう。
ここは特に異論ないし、そうありたい。

何かに行き詰まった時、また読み返してみようと思う。

柴田 和祈 X GitHub
株式会社microCMS 共同創業者 / デザイナー兼フロントエンドエンジニア / ex Yahoo / 2児の父 / 著書『Next.js+ヘッドレスCMSではじめる! かんたんモダンWebサイト制作入門 高速で、安全で、運用しやすいサイトのつくりかた』

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